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1949年のプロ野球再編問題(プロやきゅうさいへんもんだい)とは、日本のプロ野球組織「日本野球連盟」(以下「連盟」。現在の社会人野球の統括団体とは関係ない。)の球団数拡大を巡って既存球団が対立し、セントラル・太平洋の2リーグ分裂に至った1949年の終わりから1950年の始めにかけての一連の動きを指す。 ==背景・当時のプロ野球== 太平洋戦争が終わった1945年すぐにプロ野球は活動を再開し、同年11月23日に明治神宮野球場で東西対抗戦が行われたのを皮切りに桐生新川球場で1試合・西宮球場で2試合が行われた〔前掲 日本プロ野球40年史p.110-111〕。神宮での第1戦と西宮での第4戦には5000人を超える観衆が集まった。1946年からは8球団で本格的なシーズンが再開され、プロ野球は占領政策の後押しも有り急激に成長を遂げる。 戦前まで、野球は「学生の趣味」であるとの考えが一般的であり〔前掲 阪神タイガースの正体p.191-192〕、プロ野球選手とは「子供の趣味を大人になっても続け生計の手段としてしまう人々」として、(名声や子供の憧れの対象としてはともかく)一般の社会人と比べて侮蔑される存在であった。 しかし、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が「敗戦下の日本国民に娯楽を与える」という方針のもと、例えば、それまでは明治天皇を祀った明治神宮外苑の一角にあるがため特に神聖視されていた明治神宮野球場にて、上記のように蔑視されていたプロ野球の興行での使用を早々に許可する〔戦前の感覚ならば「学生同士の切磋琢磨ならいざ知らず、大人気ないプロ野球の興行などあってはならない」となる。〕など状況は一変する。 1947年のニックネーム導入、1948年のフランチャイズ制仮執行と、アメリカ合衆国・メジャーリーグベースボールに倣った活動も行われた。間接的にも紙が不足していたため占領軍当局からの用紙割り当ての制限を受けていた新聞各社が刊行許可を得て用紙の割り当てを増やすためにスポーツ新聞が相次いで創刊され〔前掲 阪神タイガースの正体p.229〕、戦前はほとんどなかったラジオ中継も、民間情報教育局から放送の空き時間をなくすように指示されたNHKが空き時間を埋める題材としてプロ野球を用いる〔前掲 阪神タイガースの正体p.231-232〕など大きな影響をもたらした。 「赤バット」の川上哲治、「青バット」の大下弘、「物干し竿」の藤村富美男ら人気選手の出現もあり、蔑視されていた戦前とは一転して、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、人気が急上昇したのである。 この結果一大レジャー産業として成長したプロ野球は1948年には半分以上の球団に黒字化の見通しがあり、この成長が続けば翌年には全球団黒字だと関係者から声が上がる〔前掲 日本プロ野球40年史 p.147〕など、稼げる事業となった。戦前から苦労してきた関係者からすれば、誰も顧みてくれることのなかった頃から重ねてきた苦労がようやく実りプロ野球はようやく黒字化してきた、野球は企業としても軌道に乗る〔前掲 日本プロ野球40年史 p.147〕という想いがあった。他方、プロ野球の成長はそこに参加していない企業からの注目も大きく集めることとなった、参入を希望する企業が続出していたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プロ野球再編問題 (1949年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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